留学・派遣OVERSEAS / DOMESTIC STUDY

海外留学

私は平成29年7月から平成30年6月までの1年間、スイス・ベルン大学精神科に留学する機会を得ました。ヨーロッパでの長期滞在は初めてで、渡航前は不安も多くありましたが、現在振り返ってみると、この地での研究と生活の一つ一つが、精神科臨床医としての在り方を見つめ直す貴重な経験となりました。ここではその体験の一端をご紹介させていただきます。

私が所属したのは、神経生理学・脳機能解析を専門とするKoenig教授のグループで、「精神疾患患者における、時間経過に伴う思考マップの変化の特徴の解明」をテーマに研究に従事しました。EEG(脳波)を用いたダイナミックな思考過程の可視化と、その解析手法に取り組みました。教授からは「自分のボスは自分だ」と初めに告げられ、自ら研究テーマを立案し、調査・解析・考察を進めるというスタイルは、当初戸惑いもありましたが、今では貴重な成長の糧となりました。
スイスの研究文化は、良い意味で現実的かつ個人主義的であり、自立した姿勢が求められます。日本のように手取り足取りという文化ではありませんが、その分、自分の興味と責任で物事を掘り下げていくことができる環境です。
また、当時のベルン大学精神科の院長が、木下利彦教授の留学時代のご友人であったことや、吉村匡史先生、西田圭一郎先生という身近な先輩方が同じベルン大学に留学されていたことは、私にとって大きな心の支えとなりました。まったくの異国の地でありながら、信頼できる繋がりがそこにあったことで、安心して研究と生活に集中することができたと感じています。

日本では、研究室内での上下関係や丁寧な指導体制が整っている一方で、自発的に研究テーマを組み立てる機会が少ない側面もあります。ベルンでは、個々の研究者が独立した主体として尊重され、教授との関係も“対話”が基本であり、肩書よりも議論の内容が重視される文化が根付いています。
また、スイスでは「仕事と生活のバランス(Work-Life Balance)」が真剣に重視されており、定時以降の労働や休日出勤は極力避けられます。研究においても、効率的にアウトプットを出すことが求められ、長時間働くことが評価に直結しない点も、日本との対照的な価値観だと感じました。
このような文化の中で、私自身も「働くこと」と「生きること」の境界を見つめ直し、自分の時間や思考を丁寧に扱う感覚を得ることができました。

ベルンは人口13万人ほどの小さな都市ですが、歴史ある旧市街はユネスコの世界遺産にも登録されており、石畳の通りや時計塔、アーレ川の流れなど、静謐で知的な雰囲気が漂う美しい街です。アインシュタインが特殊相対性理論を構想した街としても知られており、研究や思索に没頭するには申し分のない環境です。
休日には、美術館や図書館で過ごしたり、自然豊かな郊外に足を運んだりすることで、心身のバランスを取りながら生活することができました。スイスは公共交通網が発達しており、電車を使えば国内の主要観光地へのアクセスも良好です。中でも、世界的に有名なマッターホルンやツェルマットへ日帰り・一泊で足を延ばすことができたのは、大変印象深い体験でした。また、ジュネーブにあるWHO(世界保健機関)本部を訪れた際には、グローバルヘルスの現場を間近に感じることができ、精神医学の国際的役割を再認識するきっかけとなりました。
さらに、ヨーロッパ各国に留学中の友人や先輩方を訪ねる機会にも恵まれました。ドイツやイギリスをはじめとした国々を訪問し、それぞれの研究環境や文化に触れながら、多くの刺激と学びを得ることができました。これらの交流は、留学終了後も日本で共同研究を行うなど、現在でもかけがえのない関係として継続しており、私の臨床・研究活動の大きな支えとなっています。

私は臨床経験を経てからの研究留学となりましたが、やはり「留学は若ければ若いほどよい」という教えの通り、早い段階で異なる文化や研究スタイルに触れることの意義は大きいと感じました。研究や生活の中での困難を通じて、自分の軸を見つめ直す機会にもなります。特に、スイスでの研究生活を通じて得た、忙しい日本の生活ではわからなかった「一歩引いて全体を眺める視点」や「違和感を言語化し、構造的に捉える力」は、日本にいた頃にはなかなか得がたいものでした。
また、臨床から離れたことで、自分が日々「感謝されたい」とどこかで感じていたことにも気づかされました。患者とのやり取りの中で得られるフィードバックや人との直接的なつながりが、自身のアイデンティティを支えていたのだと、研究の静かな時間の中で気づきました。こうした気づきは、医師としての原点に立ち返り、臨床への向き合い方を改めて考えるきっかけとなりました。
 加えて、海外での自立した生活は、日常の一つひとつを「当たり前ではない」と感じさせてくれました。健康に暮らせること、日々の食事、公共交通、インターネット、宅配、コンビニなど、日本の“便利さ”の中にあった多くの恩恵を再発見し、周囲の人や環境への「感謝の気持ち」が日ごとに深まっていきました。 また、私が留学を決断する上で、木下利彦教授から「一度、海外に住み、外から日本を見るという経験がいかに重要か」と繰り返し説かれていたことも、今振り返ってその深い意味を実感しています。実際に現地の生活や研究文化に触れることで、日本の医療や教育の良さと課題が浮かび上がり、自分の立ち位置を見つめ直すことができました。
精神医学は人間そのものを対象とする学問であり、文化的・社会的文脈に根差した理解が欠かせません。異なる国での生活や研究を通じて、精神医学の普遍性と多様性、そして研究者としての“問いを立てる力”の大切さを再認識しました。
是非、迷った先生は一度、留学をしてみてください。 きっと、予想もしなかった自分との出会いがあるはずです。

この貴重な留学の機会を与えてくださった関西医科大学精神神経科学教室の皆様に、心より感謝申し上げます。留学で得た視点や経験を、今後は若い世代や後輩たちに少しずつ伝えていければと思っています。あの1年間の学びや出会いを、今後誰かの背中を押せるような形で還元できたら、それが何より嬉しいことだと思います。

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